ベネズエラを後にし、ブラジルに入国した私たちを待っていたのは、この旅で最大のトラブルでした。2000年7月6日の出来事です。
「白い川」を越えて
ブラジルへの国境越えは、係官もフレンドリーで、非常にスムーズでした。
国境をひとつ越えただけで、人の雰囲気が全然違う。私は今まで訪れた国の中でも、ブラジルの人たちがダントツに優しいと思っています。
牛次郎はポンコツだけど、あいかわらず私たちは絶好調でした。「不幸」の方から俺たちを避けるんじゃないか?と信じるほど怖いものはありませんでした。鼻歌まじりのドライブです。
アマゾン地帯に入り、ボア・ビスタ、カラカライという街をこえて、私たちは一路、ジャングルの中の大都市マナウスを目指して南下します。
やがて、「リオ・ブランコ(白い川)」という、アマゾン川の支流に出ました。支流といっても、かなり大きな川なので橋はありません。はしけに乗って対岸まで渡ります。
炎上する車
川を渡って40キロほど森の中の一本道を南下、その時はウメさんがハンドルを握っていました。
しばらくすると、はるか遠く、道の右側から黒煙があがっているのが見えました。
近づくと、道の反対側にダンプカーが止まっていて、その運転手が私たちに必死で「止まれ」と手を振っていました。
ウメさんは、「なんかあるみたい。停まってあげようか?」と言いました。
一瞬、「強盗かな?」と私は思いました。故障や事故を装って車を止めさせ、金品を奪う手口を聞いていたからです。
しかし、この時は本当の事故であることは明らかでした。
もう何の車種かわからない、白っぽい車が、道から落ちて道路わきの茂みの中で炎上していたのです。
それを2、3人の人たちが必死で消火器で消そうとしている。
ゆっくりと、その現場に牛次郎で近づいた私たち。次の瞬間、ウメさんが声をあげました。
「人が死んでいる!」
リアルすぎる死体
道路わきに牛次郎を止めて、私とウメさんは外に出ました。それからの数十分は、20年経ってもよく覚えています。
煙が周りを漂うなか、私たちが目にしたのは、路面に寝かされた白人の中年女性の死体でした。
はじめは、 どういうわけか髪の毛が全くなく、男性か女性かわからなかったのですが、体つきや服装から女性ということがわかりました。目は開いたままで、瞳孔は開き、Tシャツがめくれた左わき腹には大きな切り傷がパックリと、30センチほど口をあけていました。層になっている脂肪や筋肉、中の内臓までも見える、まるで標本のような傷口。出血はすでに止まっており、それは心臓が止まっていることを表していました。そしてよく見ると、足も変な方向を向いてしまっています。
「青山さん、日本で緊急救命の講習を受けて来たって言っていたよね?なんかできない?」
「うーん、これはもう…」
私は言葉に詰まりました。確かに二日間の簡単な講習は受けましたが、目の前に突如現れた、大損傷の死体。体がすくんで、何もできないのです。出来たとしても、もう手遅れではないのか?そんなことを自分に言い聞かせていたと思います。
死体のそばで何もできないでいると、ダンプカーの運転手がケガ人を連れてきました。あの滅茶苦茶になった車には、生存者がいたのです。
一人はほとんど無傷の、白人の中年男性。炎上した車のドライバーで、亡くなった女性の夫のようでした。もう一人は夫婦との関係がよくわからない、褐色の肌の若い女性。当時の日記では「アゴの裂傷」と書いていますが、口の周辺を切ったらしく、口からボタボタと血を流していました。
どうも、事故は炎上する車が単独で起こしたようでした。亡くなった中年女性と、ドライバーであるその夫、そして口を切った若い女性の3人が搭乗。
見通しの良い一本道でしたが、おそらくスピードの出しすぎでハンドル操作を誤り、路肩に落ちたのではと思います。実際、後日その現場をみると、燃えている地点の数十メートル手前に、タイヤの跡が残っていました。
路肩に止まっていたダンプカーは、事故の後で通りかかったのです。
時速70キロの修羅場
ダンプカーの運転手との、身振り手振りのやりとりで分かったこと。
・ダンプカーは大きすぎて、ここではUターンができない
・携帯電話は電波が通じない。救急車を呼べない
・だから私たちに、犠牲者やケガ人をカラカライの街まで連れて行ってほしい
もう、断るという選択肢は無かったですね。すでに猪飼くんとウメさんの奥さんが牛次郎の中を整理してくれており、全員が乗れるスペースが確保されていました。
私とウメさんで死体(これからは「遺体」と呼びます)を運び、牛次郎に乗せました。ウメさんが上半身、私が下半身を持って。
きっとこの女性も、今日の朝、普通に朝食を食べ、さっきまで鼻歌まじりにドライブをしていたんではないでしょうか?私たちもそうだった。でも、なんだこの、現実というものの無慈悲さは?
私たち4人と無傷の中年男性、口のまわりを切った若い女性、そして遺体をのせた牛次郎は、カラカライを目指して発車しました。
道のりは約50キロ。ウメさんはエンジンが千切れそうなくらい、アクセルを踏み込んでハンドルを握ります。その手には、今までにない緊張が感じられました。
後方の、遺体を乗せた荷台は大変なことになっていました。
中年男性は泣き叫び、遺体の目を覚まそうと、揺すったり叩いたりします。その度に、遺体の口や傷口から血液が漏れ出すのです。
そして、男性は急に私の手を掴んだかと思うと、もう一方の手で空を指さしながら言ったのです。
「なあ、俺の妻はもう天国に行ってしまったのか?もう死んでしまったのか?」
ポルトガル語なので言葉は分かりません。でも空を指さしながら、天国にいく、というジェスチャーをして、私に聞いてきたのです。
私はなんて答えたら良いかわからず、ただ「うんうん、もうすぐだから」となだめるしかありませんでした。
その脇で、褐色の若い女性は宙を見つめながら、「ゔーゔー」とうなり、口から血を流し続けました。その女性には猪飼君が寄り添って、ティッシュなんかを渡し続けていました。
さっきまで平和そのものだった牛次郎の車内。今はまるで野戦病院の阿鼻叫喚っぷりです。
私も、けっこうその状況に腰が引けていました。
クラクションの大合唱
やがて、私たちはリオ・ブランコまで戻ってきました。しかし、川を渡るはしけは向こう側に着岸しています。
私たちの様子を見ると、はしけを待っていた他の車たちは皆、道を譲ってくれ、列の先頭に立たせてくれました。
はしけが戻ってくるのをもどかしく待っていると、こちら側の車が次々とクラクションを鳴らし始めました。クラクションの大合唱。緊急事態だ、早く戻ってこい、と知らせてくれているのです。
そのうち、のそのそと、はしけがこちら側の岸にやってきました。それに乗って川を渡っていると、カラカライの病院を知っているというバイクの男性が現れました。そして、対岸からカラカライの街に入り、病院に着くまで、彼が先導してくれました。
街に入ってからは、どこから聞きつけたのか、他のバイクも群がってきて、まるで小さな暴走族が病院に乗り付けたようでした。
無事に病院に到着、遺体はストレッチャーに乗せられて建物の中に消えていきましたが、医者らしき人は、やはり首を横に振っていました。ケガ人たちも、看護師に案内されていました。
それでも車中泊
私たちは抜け殻のように病院の前にいましたが、遺族と思われる男性がやってきて、私たちに「ムイトオブリガード(どうもありがとう)」と言ってくれました。
ああ、分かってもらえたんだなあ、と思いました。というのも、私たちが轢いたんじゃないか、と疑われる可能性も考えていたからです。
その夜はカラカライの警察の好意で、警察署の前で車中泊する許可をもらいました。署のシャワーも使っていいと。
ただ、車中泊といっても、さっきまで遺体が乗っていた車内ですから、荷物は散乱し、下に敷いてあるスポンジなどは所々に大きな血の染みができています。
私たちはスポンジの 汚れた箇所をナイフで削り、壁や天井を拭いて、寝れるようにしました。
まあ、多少抵抗はあったけど、間違ったことはしていないんだし、人助けしたんだし、堂々と寝よう、ということで意見は一致しました。
疲れていたんで、その夜はすぐに眠りに落ちたと思います。
マネはしないように
とまあ、こんなことがあったんだよ、と後年、チカちゃん(看護師)に話したのですが、
「信じられない。医療知識のちょっとでもある人は、絶対マネしないよ」
というのです。
というのも、その人が何に感染しているかわからないので、血の出てる遺体を素手で触るなんて危険すぎる、というのです。
実にその通りですね。肝炎とかもありますからね。
次(ないと思うけど)は、気を付けます…。
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