牛次郎の旅①:エクアドルで車を買う

ミミーゴ
ミミーゴ

これから数回に分けて、2000年に愉快な仲間たちと車を買い、南米を半周した「牛次郎の旅」について書こうと思います。

今回の旅の舞台

「電脳吟遊詩人」との出会い

2000年5月、私はオートバイで世界一周をしている途中で、中米のパナマから飛行機でオートバイを空輸し、南米エクアドルに入ったばかりでした。

ホームページの更新を続け、朝日新聞系のパソコン雑誌に連載を持ちながら旅行していた私ですが、担当の編集者が「同じようにホームページを作って、別のパソコン雑誌に連載を持っているバックパッカーの夫婦がいるから、会ってみなさい。もし、何か面白い話に発展すれば…」と言ってきたのです。

それが、当時「電脳吟遊詩人世界をゆく」というホームページを開設し、ヤフー系のパソコン雑誌に連載をもっていたウメさん夫妻なのでした。

彼らが泊まっていたのが、エクアドルの首都キト、旧市街の安宿「スークレ」。
私はオートバイを置く都合で新市街に泊まっており、その日は軽く挨拶するだけで帰ろうと思っていたのです。
それが、会った瞬間から話が盛り上がり、夕食を他の宿泊者たちとも一緒に作って食べ、酒も酌み交わすうちに、「もう遅いから、この宿に泊まれば?」となったのです。

そしてオートバイを新市街に置いたまま、次の日も、その次の日も「スークレ」に泊まり…それが半年におよぶ車の旅行の始まり、そしてその後、20年間にもわたるウメさん一家との家族ぐるみの付き合いの始まりでした。

シタールを持った旅行者ウメさん

一泊40円の安宿「スークレ」

安宿スークレ。2階が受付、3階が連れ込み宿、4階が日本人の溜まり場。

私がオートバイのためだけに新市街に部屋をキープしながら、旧市街のスークレに泊まることができたのは、為替のマジックによる、めちゃめちゃな宿泊費の安さ。

新市街のホテルが1泊800円。スークレに至っては、個室で40円…!。これを下回る宿泊費というのは、数多く旅行をしてきましたが、いまだかつてありません。

オートバイが停められない、周辺の治安が悪い、というのを我慢すれば、世界遺産にも登録されている中世の風情が残るキトの旧市街、サンフランシスコ広場に面した一等地で、当時は日本人バックパッカーの溜まり場になっていました。

急な坂にあるので、2階がロビーと受付なのですが、4階の半分が日本人が多く泊まる個室で、半分がテラス。当時はなぜか、ウサギが4匹放し飼いになっていました。
で、3階はというと…連れ込み用の部屋でした。

2階のロビーとかから、丸見えなのです。娼婦とお客が、3階の部屋に入っていく様が。
暇な旅行者がいて、「俺はエクアドル人の平均を見極める!」といって、何分に娼婦と客が入っていったか、何分に出て行ったか、何組も何組も観察している人がいました…。

夜、屋上からサンフランシスコ広場を見下ろすと、中世の石畳みの上をあるく、若者の集団が見えて、棒とかブンブン振っていて、なんやら武装しているっぽいのです。
「あれ、強盗かな?」「それとも自警団…?」
とりあえず、夜はとてもじゃないけど外出できない雰囲気でした。

スークレの屋上からの眺め

きっかけはペルーの大統領選

そんなスークレで、ウメさん夫婦をはじめとする宿泊者たちと楽しい毎日を過ごしていましたが、そろそろ旅も再開しないと。エクアドルの隣国ペルーに南下して…と考えてましたが、そこに暗雲が。

2000年の5月、ペルーは大統領選挙で荒れており、現職のフジモリ氏と対抗馬のトレド氏の勢力が衝突。フジモリ氏が日系人だったため、日系人、日本人に対する嫌がらせも起き、「このままペルーに南下するのは危険かも?」と思い始めたのです。

ペルーに南下する予定だった旅行者たちも、「どうしよう」と酒を飲みながら話し合っているうち、斜め上をいく案が浮上しました。
「みんなで車を買って、コロンビア方面に北上したらどうだろう?マジック・バスツアーだ!」

はじめは冗談でしたが、次第に議論に熱がこもり、その計画に4人の旅行者が名乗りをあげたのです。

猪飼くん(左)と、ミミーゴ
  • ウメさんと奥さん(2020年現在、TIRAKITAの敏腕経営者)
  • 猪飼くん(2020年現在、京都の銭湯を活用したレンタルスペースを運営)
  • ミミーゴ(2020年現在、某メーカーのサラリーマン)

中古車の青空市場で探せ!

次の日から、キトの街で中古車探しをはじめた私たち。しかし、これが思ったより難航しました。
自動車メーカーが無いエクアドルでは、車は貴重品。2、30万円くらいだせば中古車くらい、と思っていましたが、古い車でも修理を重ねて乗り続けるので、値段がなかなか下がらないのです。
足を棒にして中古車屋をめぐりましたが、めぼしいものにたどり着けません。

そこで、困っていることを、スークレの従業員カルロスに相談してみました。彼の奥さんと、お父さんが自動車整備士なのです。
すると、「週末になると、キトの郊外に中古車の青空市場(Feria de carro)が開催される。そこで探してはどうだろう?」とアドバイスをくれました。

そしてその週末、バスを乗りついでキト郊外のある場所に行ってみると…並んでいる並んでいる!中古車が数百台も!
それも、中古車屋には並ばない、20万円前後の激安車からあるのです。

中古車の青空市場。カルロスに言わせると600台はあるという。

市場はなかなか広大で、基本は売り手と買い手が直接交渉するのですが、中には交渉屋とか、エンジンの調子を見てくれる屋とか、売買に付随した商売をやっている人たちも。

1978年式のハイエース2900ドル、77年式の三菱コルト2100ドル…決め手に欠ける私たちでしたが、市場を歩いて二日目、出会ったしまったのです。
1974年式のクリーム色のJEEPバン。エンジンは日産の2000ccに乗せ換えているという。
見た目がコミカルで、何より「マジック・バス」っぽい、小型のバス?バン?
私たちは、一目ですぐに気に入りました。

その日はカルロスも一緒に来てくれていました。売り主とかけあい、「エンジンの調子を見てくれる屋」に圧縮比を確認してもらい…最終的な値段は1880ドル(約20万円)。

警察署へいって、外国人でも自動車を登録できるかを確認したあと、正式に売買。
現金で売り主に支払い、陸運局みたいな事務所や裁判所に赴き、ウメさんの名前で登録証書を作成。
実際、この車でコロンビア、ベネズエラ、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、ペルーと旅行することになるのですが、エクアドルの登録証書で問題はありませんでした。

みんなで一目ぼれした1974年式JEEPバン。面構えが可愛い。

「牛次郎(うしじろう)」と命名

さあ、車を購入したあとは、長い旅の準備です。
後部の荷台にウレタンを敷き、表面にベルベットのような生地をかぶせて眠れるようにしました。
エンジンや足回りなど、修理や調整を行って、車体には楽しげなペイントを施すことにしました。

ウメさんの奥さんは「ピカチュウにしよう」と言ったのですが、あとの三人は牛模様で一致。
見た目が牛っぽいというのもあったのですが、この車を売ってくれた前のオーナーの名前が「Segundo Vaca(スペイン語で「次男」・「牛」)」だったのです。
Vaca=スペイン語で牛=バカというのも、気に入りました。

「よし、牛次郎(うしじろう)だ!」と盛り上がり、ペンキを買ってきてみんなでペタペタ塗ったのです。

このころは、選択肢が二つあったとしたら、「より下らない方」ばかりを選んで突き進んでいました。若き日の私たち。合言葉は「バカを全速力でやる」でした。

ウメさんと猪飼くんと、車を牛模様にペイントする。ミミーゴはこの頃スキンヘッド。
荷台にウレタンをひいて、眠れるように改造

深夜の旅立ち

車で旅行する間、何か月になるかわからないけど、カルロスが自宅でオートバイを預かってくれることになりました。
(この旅では本当にカルロスにお世話になりました)

準備を進め、そろそろ出発というころ、エクアドル全土が翌日からパロ(ストライキ)に突入する、という知らせが入ってきました。
パロに突入すると、人々は道路でタイヤを燃やし、封鎖してしまうのです。その間、長距離の移動は制限されます。
「今夜中に出発して、できるだけコロンビアに近づこう!」

作業中だった修理を急いでもらい、私たちはとりあえず荷物を「牛次郎」に詰め込み、出発の準備が整ったのが2000年6月14日、深夜11時。
他の宿泊者たちに見送られながら、用意していたスパークリングワインを牛次郎にかけて、出発の記念としました。

スークレの前で、出発の記念写真

あの夜は、月が明るかったと記憶しています。
月明りに照らされたアンデス山脈。へばりつくような山道。コロンビアを目指して北へ、北へ、夜通し走ったのです。
まったく眠くはなりませんでした。遠足の前夜がずっと続いているような感じ。
あの高揚感を、私は一生忘れないでしょう。(次号に続く)

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