今回は2003年、チカちゃんと私の出会いについて書きます。
「友達の家」
その宿はインド、ガンジス川に面した聖地バラナシにありました。
初めてインドにいく人は必ずといっていいほど訪れる、日本でいえば京都のような都市です。
その一等地に、27歳の人懐っこいインド人青年ラジャが切り盛りする宿がありました。
「フレンズ・ゲストハウス」。宿の入り口には、大きくペンキで「友達の家」と漢字で描いてありました。
当時は、「クミコ・ゲストハウス」と並んで人気の宿だったと思います。
しかし、「友達の家」は全体的に日当たりが悪く、特にドミトリー(相部屋)は半地下で、ちょっと牢屋のよう。ガンジス川に面した窓から沐浴場がよく見えるのと、ラジャの人柄、そして一泊約100円という安さだけが取り柄のような部屋でした。
その宿に泊まって、私はガンジス川で沐浴をしたり、敬虔なヒンズー教徒の遺体が薪で焼かれる様を見たり、怪しいヨーグルトドリンクに挑戦したりして、日々をすごしていたのです。
じっとしていられない女
そんなとき、3人組のグループがチェックインしてきました。その中に、チカちゃんがいたのです。
第一印象は、小柄で可愛らしい人だなあ、と思いました。背負っているバックパックが大きすぎて、後ろから見ると、リュックが足を生やして歩いているように見えるのです。
フレンズのドミトリーは床にゴザを敷いて寝るスタイルだったのですが、チカちゃんにあてがわれたスペースは、私の隣でした。彼女も3年ほど旅行と帰国を繰り返している関西人でした。
私たちが近しくなるきっかけは、ラジャの友達の政治家が持ってきた、ある話でした。
その政治家が所属する「インド人民党」が、このたびニューデリーで、世界の青年を集めた反テロ・国際会議を主催する。
しかし、残念ながら参加者が集まらない。外国人なら、もうバックパッカーでも誰でも構わないから、サクラとして来てほしい。五つ星ホテルの宿泊と食事、ニューデリーまでの列車を用意する!
こんなオイシイ話、そうそうある訳ではない。すぐに「フレンズ・ゲストハウス」に泊まっていた男女10人の参加が決まった。その中に、私とチカちゃんもいたのです。
「参加者は、この紙に年齢と氏名を書いてくれ」
一枚の紙が配られました。それを最初に手にしたのがチカちゃんだったのです。
「36 CHIKA MATSUOKA」
チカちゃんが回した紙をみて、みんなビックリ仰天です。
「36って、…ええ、年齢?チカさん36歳なんですか!」
あとから分かったことですが、チカちゃんは若く見られることが多く、そして驚くと、とても喜ぶのです。
この時も、照れ笑いをしていたと思います。
この時ミミーゴ、31歳。最年長かと思ってました。
ニューデリーへの出発まで、二日ほど時間がありました。
みんはそれまでバラナシで観光をしたり、荷物の準備などをしたりしていましたが、そんな中、チカちゃんは旅支度を終え、先に出ようとします。
「私、カジュラホーに行ったことがないんで、そこに寄ってからニューデリーに行きます。現地で合流しましょう」
「えええ?チカ姉さん、それは無理だよ。時間がキツすぎるよ!」
「大丈夫、宿に泊まらないで、ぜんぶ夜行バスにしたら行けるから!」
その時、私は思ったのです。「この人、じっとしていられないんだな」、と。
そして結婚して14年経った今でも、それは間違ってなかったと思います。
国際会議は、政治家たちの茶番劇だった
はたして、夜行列車でニューデリーに到着した私たち。
バラナシで会った例の政治家が、今度はグレーのスーツに身を包み、SPを引き連れて私たちを出迎えてくれました。そして、5つ星ホテル 「セントール」の国際会議場まで連れていってくれたのです。
だんだん雰囲気が…あれ、俺たち、こんな所にいていいのかな?
会議場に入ると、檀上には偉そうな人たちが。なんと、現役の首相や大臣たちというではないか。
会場には外国人もいるが、席を埋めている大半はインド人。これはどういうことだろう?
この会議の目的は簡単だった。
世界の若者たちと一緒に、「テロを繰り返す」パキスタンを糾弾する内容の「平和宣言」を採択すること。
当時の最大与党 「インド人民党」 による、国民へのアピールです。
会議が始まると、首相をはじめ、偉い人たちが、いかにパキスタンがテロの巣窟か、悪者か、延々とスピーチを繰り返す。そしてその度に、インド人の聴衆がやんややんやと盛り上げる。
スピーチが終わったあと、別の会場に分かれて分科会のようなものが行われた。
困ったことに、あの政治家以外に、私たちが数合わせのサクラだと知る人はいない。だから僕たちは頑張って、日本からきたNGO団体のフリをしなければならなかった。
中には、真面目に議論しようと母国から来た青年たちもいた。
「こんなハズじゃない」と思って、分科会に移ってから、会議の運営側を批判する発言をする人たちが出てきた。その中には、日本人の議員もいたのです。
公明党の遠山清彦という人でした。
「なんでこの場にパキスタン人を呼ばないんだ。向こうの意見を聞く気はないのか!」
参加した外国人みんなが思っていたことを、流ちょうな英語で熱くスピーチしてくれました。拍手喝采を浴びていました。
まあ、結局は黙殺される運命なのですが。
この議員さん、今は財務副大臣だって。優秀そうだったもんね。
インド人に、タージマハルを売りつける
サクラの使命をわきまえた私たち。おとなしく、目立たず、事なかれ主義で会期の三日間を過ごしました。
会議の最後は、インド人の拍手と外国人のブーイングの中、例の「平和宣言が」が採択されて終了。
首相や大臣が檀上でポーズを取り、インドのマスコミがこぞってフラッシュを焚いていました。うーん、わかっていたけど、見事に利用されてしまった感が。
一方、会期中の夕食は連日、大臣の官邸でガーデンパーティでした。普段食べなれない高級食材に、チカちゃんはお腹を壊していました。
お酒は出ないけど、普段経験できないことなので、みんな大盛り上がり。
気の毒でよく覚えているのが、ある大臣の家、送迎のバスが止まったのが道の反対側だったのです。
そこから私たちは道を渡る必要があるのですが、私たちの護衛の警察官が、棒で地面をバンバン叩いて威嚇し、通行人や往来の車を蹴散らして、渡れるようにしてくれるのです。
いいよ、そんなにしてくれなくても…私たちはしがないバックパッカーなのだが。
3日目は議事はなし、ガンジーの墓に行ったり、日帰りでタージマハルまで連れて行ってくれるツアーアが開催されました。
タージマハル、2回目だったのでどっちでもよかったのですが、参加したら面白いことがありました。
観光が終わった後、参加者にズシリと重いお土産が配られました。中をみると、大理石でできたタージマハルのミニチュア。長期旅行者が最も欲しがらないタイプのものです。
どうしたものか考えていると、同じ参加者のドレッドヘアのRさんが、「これ、売っちゃいましょう、インド人に!」と言いました。
そしてニューデリーに戻ったあと、パハールガンジの通りで、適当なインド人を捕まえては、「お前、このタージマハル買わないか?安くするぞ」と交渉し、見事に売り切ってしまったのです。
その後、他の参加者も次々と売っていました。
買うんですね、インド人。俺なら、ぜったい東京タワーの置物買わないけど。
それとも、他の誰かに売るのかな?
そういえば、タージマハルへのバスで、チカちゃんと席が隣だったなあ。
あんまり記憶がないのですが、私、一生懸命チカちゃんに話しかけていたそうで。
バスの後ろの席だった子が、「ミミーゴさん、がんばれー」と心の中で応援してくれていたそうです。
初デートはランタン谷
国際会議のあと、参加者のみんなとインドを南下してアジャンター、エローラ遺跡を見て回り、私とチカちゃんがその後も一緒に旅をしようと決めたのは、 ブシャヴァルという町でした。
二人でどこへ向かうか?という話になったとき、チカちゃんは紅茶で知られるインドのダージリン州に行きたかったのですが、私がネパールに行ったことが無かったので、私に合わす形で、ネパールのカトマンズを経て、その北にある 「世界で最も美しい谷」ランタン谷でトレッキングをすることになったのです。
だから、私の中では初めての思い出の場所は、ランタン谷なのです。
ため息のつくような景色の中、標高3500メートルのランタン村まで登りましたが、そこで私の膝が悲鳴をあげ、引き返すことにしました。
ランタン谷トレッキングのハイライトは、そのさらに奥なのですが、それでもランタン谷で年に一度の結婚式が見られ、一生の思い出になりました。
(ランタン谷では、チベット歴の正月に一年分の結婚式を執り行うのが習わしらしく、複数のカップルが同時に祝福されるのです)
どこに惹かれたのか?
ネパールのあと、私とチカちゃんはタイ、韓国を経て、釜山からフェリーで大阪港に帰ってきました。2003年3月31日、久しぶりの日本は桜が咲いており、新たな人生のステージを予感させました。
その後、私の仕事が見つかるまで、4か月ほど関西と関東で離れて暮らしたものの、私とチカちゃんは基本的に一緒に暮らしています。国際会議、いや、バラナシの「友達の家」から一緒なのです。
だから、私たちはまだ「旅の途中」なのかもしれません。
チカちゃんのどこに惹かれたのか。
それは、「この人と一緒なら、世界の果てでも行けるだろう」という逞しさと、人の緊張をほぐす柔らかい雰囲気です。
看護師という職業柄か、チカちゃんは本当にいろんな人に話しかけられるのです。海外でも、日本でも。
旅行先にいるのに、よく現地の人に道順とか尋ねられています。あと天気とか、他愛もない話を。バス停でおばあちゃんと並んでいると、必ず会話が始まっています。
人に垣根を感じさせず、話しかけられやすい、というのは人として素晴らしいことだと思うのです。
私には絶対無理だから。
また、同じような旅行をしているということで、カップルにとって致命的な金銭感覚のズレも、この人ならないな、とも思いました。
インド風?の結婚式
2005年4月12日(よい二人、という意味でこの日にした)、私たちは正式に入籍し、インド雑貨の輸入を手掛ける親友が、自宅でインド風?の結婚式を開催してくれました。
多くの友達、旅行者たちに祝福され、幸せで一杯でした。二時間くらいで酔いつぶれたけど!
結婚指輪はなし。私もチカちゃんも結婚は2回目だったし、指輪を買うお金があれば、そのぶん旅行しよう!というのが私たちの方針だったのです。
そんなこんなで結婚14年、私たちはボチボチやっているのです。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
コメント